各種法要、墓地分譲 | 心が洗われる身近なお寺 栃木県鹿沼市 曹洞宗 瑞光寺

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ごあいさつ

 栃木県鹿沼市玉田町に位置する曹洞宗 玉田山 瑞光寺 のホームページをご覧頂き、誠にありがとうございます。この瑞光寺は、緑豊かな清らかな環境を生かした歴史ある寺院です。

 時代の変化を捉えつつも、自分のいのちを大切にするだけでなく、他の人びとや物のいのちも大切にする他人への思いやりを義とし、互いに生きる喜びを見いだしていくことが出来ることを共に願っております。葬儀や法事など、ご要望があればお気軽にご連絡をお願い致します。

永代供養観音

また、御家族・御親族の代わりに、永代にわたって本院で供養・管理する「永代供養観音(納骨堂)」を建立致すとともに、立地条件を生かし、総108区画限定の本堂前墓地分譲を開始致しました。詳細をご覧頂き、お気軽にお問い合わせをお願い致します。

お知らせ

  • 瑞光寺の歴史(第1回)
         ― 瑞光寺の古記録から中世の鹿沼の歴史に新たな発見 ―
                             曹洞宗権大教正
                             瑞光寺 住職 黒田 征利

     
      今般はじめて、瑞光寺の古文書を駒沢女子大学教授の皆川義孝先生に調査・解読して戴きました。その結果、瑞光寺の開創の歴史だけでなく、中世鹿沼の歴史に新たな発見もありました。今回から、瑞光寺に伝わる古文書や古記録からわかった歴史について紹介をしていきたいと思います。
     さて、「鹿沼」を名乗る人物が最初に登場するのはいつでしょうか。
    日光二荒山神社にある正応5年(1292)の通称「化灯籠(ばけ灯籠)」にある「鹿沼権三郎入道教阿」です。この人物は、今から731年前の鎌倉時代の武将です。次いで、延徳年間(1489~1491)には、教阿の末裔とされる「鹿沼右衛門大夫教清」がでてきます。 鹿沼教清は延徳3年(1491)に、上野台の合戦にて宇都宮氏との戦いで戦死します。教清には子供が無く、鹿沼氏は断絶したといわれています。
     この後、中世末の戦国時代には、現在の伊勢神宮に伝わる古文書の中に、猪倉城(現在の日光市猪倉にある城)の鹿沼氏が出てきますが、この鹿沼氏は、正式には神山氏を名乗っていました。神山氏が、なぜ鹿沼氏と名乗っていたのか、また先にふれた鹿沼教阿や鹿沼教清との直接的な関わりについてはよくわかりません。
     このように、鹿沼氏は断片的な資料しか残っていないため、謎が多い武将です。
    今回、瑞光寺に伝わる、江戸時代のはじめ、元禄10年(1697)に作成された「瑞光禅寺開基縁起」に「鹿沼右衛門尉」と瑞光寺の関わりが確認できました。つまり、瑞光寺に伝わる古記録の中には、鹿沼氏の歴史を明らかにするための貴重な資料があることがわかりました。
     それでは、「瑞光禅寺開基縁起」を踏まえ、瑞光寺の開創の歴史や鹿沼氏との関わりを紐解いていきましょう。
    「瑞光禅寺開基縁起」から推計すると、瑞光寺は今から546年前の文明9年(1477)に益之永謙禅師により開創されたということになります。
     益之永謙禅師は、上野国(現在の群馬県渋川市)雙林寺の一州正伊禅師のお弟子にあたります。また、瑞光寺は一州正伊禅師の門葉百五十院の中でも重要な四箇道場の一つに数えられます。
     また瑞光寺の開基様は、室町時代の日光山(現在の日光輪王寺)第四十三世権別當であった昌源大僧正です。昌源大僧正は、権別當に就任した記念として、日光山内に杉や松を数万本植樹されたといいます。今でも日光山内にある大木の杉の中には、植樹した昌源大僧正の名に由来して「昌源杉」というものがあります。
     「瑞光禅寺開基縁起」によれば、益之永謙禅師は現在の瑞光寺の坐禅石にて坐禅修行に励まれていると、裏山の玉田山の頂に紫雲が立ち込め、一筋の瑞光が益之永謙禅師の坐禅されている玉田山の麓を照らしたといいます。
     その時、開基の昌源大僧正が玉田村を通りかかり、西嶺を見ると紫雲が立ち込め、玉田山の麓が光輝いている様子をご覧になり、その地には必ずや大徳なる人物がいると感じられました。そして、昌源大僧正は、玉田山の中に入り、坐禅をしている益之永謙禅師と対面されました。
     しばらくの間、問答された後、昌源大僧正と益之永謙禅師は卒啄同時(意気投合)され、昌源大僧正は「外護の檀越となり、益之永謙禅師のために精舎を造ろう」といわれ、直ちに伽藍を整備し、修行僧を安居せしめたといいます。そして、昌源大僧正はこの一寺を「紫雲山瑞光寺」と名付けられました。
     開基の、昌源大僧正と開山の益之永謙禅師は、それぞれの宗派は天台宗と曹洞宗と違いましたが、宗派の枠組みを超えて、お二人が意気投合して開創された、まさに瑞光寺は「異宗他門の交わり」により開創されたといえます。時に、文明9年(1477)、応仁の乱が収まった年でもありました。曹洞宗の寺院の開創には、さまざまな由来の話がありますが、瑞光寺の開創のように、曹洞宗と他宗派の僧侶によって寺院が創建されたとの話は大変珍しいと思われます。
     「瑞光禅寺開基縁起」によれば、その後、鹿沼城主の鹿沼右衛門尉により、瑞光寺は同城下に移されたとあります。鹿沼右衛門尉は、大変仏教を篤く信仰した武将であったとされ、先に触れた鹿沼右衛門大夫教清、その人か一族の人物と思われます。この時の瑞光寺の住持は、益之永謙禅師の筆頭弟子である、雪江良訓大和尚であったと思われます。瑞光寺は、鹿沼氏から篤く信仰を受けるなど、同氏とも深い関わりのある寺院でした。
     しかし、益之永謙禅師はあまり巷のわずらわしいことが好きではなく、鹿沼城下の地に瑞光寺があることをよく思っておりませんでした。そうした折、瑞光寺は火災によってすべての伽藍が焼き尽くされてしまいます。この結果、瑞光寺はもとの玉田山の麓(現在の場所)に移し、火難消除のため、「紫雲山」の山号は近隣の観音菩薩に寄付したといいます。この観音菩薩が、現在の鹿沼市千手山にある真言宗の千手院の本尊の千手観音菩薩坐像のことと思われ、現在の千手院の山号は紫雲山となっています。
     このようにして、瑞光寺は玉田山の麓の旧地に戻り、山号を玉田村からとり、現在の玉田山になったといいます。
     以上が、「瑞光禅寺開基縁起」に書かれたお話の概略ですが、瑞光寺には、この縁起の写本も伝わっております。このように、日光山の外護のもと開創されたとの歴史は、その後の瑞光寺にとっても大切な歴史として語られてきたといえます。
     江戸時代には、瑞光寺はこの開創に関する由緒をもとに、日光山や徳川将軍家からの庇護を受け、日光御神領下に多くの末寺を建立するなど発展することができたと考えられます。
     もう1点、瑞光寺に伝わる「板橋家譜抜書」について紹介します。
     この抜書は、今市(現在の日光市板橋)の板橋城主であった板橋氏の来歴だけでなく、瑞光寺にとっても同氏出身の13世吉松源良大和尚について記された貴重な記録です。
     板橋氏は、武州豊島郡板橋駅(現在の東京都板橋区)の一族とされる武将です。野州の地と板橋氏はもともと関わりがありませんでした。宇都宮氏や日光山遊城房と対峙していた下野壬生氏が小田原北條氏に加勢を願い出、これを受けて武州豊島郡の板橋将監親棟と嫡男加賀守行常が下野に赴きます。板橋親棟・行常は壬生氏と心を合わせ、遊城房を日光山へ追い返し、遊城房が築城した板橋城を奪い、居城とするに至たりました。その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで壬生氏が滅亡すると、板橋城も再び遊城房に奪われてしまいます。このため、親棟の子、板橋行常は父の親棟や一族の菩提を弔うため、瑞光寺に身を投じて、十三世吉松源良になったといいます。
     今回、瑞光寺に伝わる「瑞光禅寺開基縁起」、「板橋家譜抜書」について、紹介してまいりました。瑞光寺は、日光山や板橋氏と深い関わりがあったことが明らかになったといえます。
     この点は、これまであきらかにされてこなかった中世鹿沼の歴史でもあります。今後も、瑞光寺に伝わる古文書・古記録を読み解き、そこから見えてくる瑞光寺の歴史等は、引き続きお知らせしてまいりたいと存じます。

       

      
    「瑞光禅寺開基縁起」          「板橋家譜抜書」

      


      
  • 曹洞宗瑞光寺因脈法会 
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      2019年10月30日発行 中外日報より
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  • 本山二祖峨山韶碩禅師650回大遠忌本法要において、住職 黒田征利老師(曹洞宗 審事院長)が焼香師をお勤め致しました。
    詳しくはこちらをご覧ください。
  • 住職 黒田征利老師が曹洞宗 審事院長に就任致しました。
    詳しくはこちらをご覧ください。
曹洞宗 玉田山 瑞光寺